人生は永遠の過程
人生はずっと過程です。
目標達成したら何か明確な区切りが来て、本当の人生が始まるとかいうものじゃありません。
この永遠の過程を愉快に過ごすことが人生の豊かさそのもの。
短期間で目標を達成していくことに特に意味はありません。
どうせその後も新たな欲求は死ぬまで追ってきます。
日々に気持ちの余裕を作り、優しい時間を過ごすことの方が大切です。
そのために、目標達成は勇気を持って長期化して大丈夫です。
人生は長期戦のようですが、誰も一生を終えてみたことがないので予定の立てようがないからです。
でもそれは逆に、自分はずっと人生の現役で、だからこそ学び続ける方がいいということでもあると思います。
人は成長するほど自分や周りを楽しませることができるからです。
今生きている時間の連続こそが自分の人生ですが、この考えは諦めや悲観ではありません。
「目標なんか達成しなくとも、今すぐに人生を愉快がっていい。どうせずっと過程なんだよ。」という希望でありお守りです。
明るく優しくなりたいと思ったら、今すぐそうなることを自分に許可しましょう。
"全ての戦いが終わってから"と思っていたら人生が終わるので。
嘘つきとの付き合い方とリーダーシップ
仕事上、相性の悪そうな人と密に関わらなくてはならなくなったので、お互いが傷つかないよう対策を考えておこうと思います。
近頃職場のメンバー入れ替えがあり、新しくAさん・Bさんという2人の年上メンバーと一緒に働くことになりました。
初日の終わりにAさんが席を外したとき、BさんからAさんとの接し方についてアドバイスを頂きました。
- Aさんは思っている通りの言葉を言わないことがよくある。額面通り受け取るのは危険。
- Aさん曰く「先輩の"いいよ"は"いいよじゃない"」とのこと。
- 失礼があると長期間根に持たれる。Bさん自身も何度か怒られてる。
とのこと。
実際同じメンバーになったその日、ずっと自分を卑下するようなことを言いながら接触して来られ、それをいちいち否定して差し上げるのに苦慮しました。
え、、もしかして今日からずっとこのやり取りが続くの…?
と思っていたところに上述のアドバイス。
Aさんが礼節に敏感で気難しいという話は前から耳にしていたのですが、実態は『自虐しながら若手社員に近付き、「そんなことありませんよ、すごいですよ」と持ち上げてもらえないと、無礼者というレッテルを貼る』というスタイルのようです。
人はもちろん間違いを言うこともあるし、後で事情が変わることもあります。
でもわざと誤解を生みやすい態度を取っておいて相手を責めるのはフェアじゃない。
そう思う僕はAさんの価値観とかなり相性が悪そうで、次のような未来が容易に想像できました。
Aさんに無礼者認定される。
↓
僕の悪口を吹聴される。
↓
自分の心理的安全性が損なわれ、職場に行くのが辛くなる。
なので対策を考えた方がよさそうなのですが、大前提としてAさんの言動を変えることはできないし、他人にその権利はありません。
自分の対応・気持ちの処し方を予め考えておくことにします。
まずAさんの心理を想像してみると
- 極端に自信がないか、自尊心が高いため、周りから持ち上げてもらいたい。
- 1の役割を果たさない人間は卑下する対象に任命。他人の価値を下げることで、相対的に自分の価値を高める。
- 年上の人間は敬うべき。自分もそうしてきたし、そうされるべき。
こんなところでしょうか。
だとすると対策は明快です。
- 常に褒めて肯定する。
- 自虐してきたら100%否定し、尊敬の意を伝える。
僕はこれまで、好きな人には好意を伝えて仲良くなりたいし、そうでない人には特に何も伝えなければいいと思ってきました。
むしろ嘘の好意を伝えるのは不誠実だし、オオカミ少年のように本物の好意の信憑性が下がるとさえ思っていました。
でも今回の相手は攻撃性のある嘘つきなので事情が違います。嘘で返してもそれは正当防衛。良しとしたいと思います。
ただし、毎日自分を偽って相手に合わせるのには精神的に限界があります。
ストレスを消化し切れなさそうなら、早めに上司に相談し、自分が苦慮している状況を認識してもらうのが良さそうです。
世間ではよく、相容れない人からは逃げろと言われるし、可能ならそれがいいと思います。
逃げるか、工夫してやってみるか。困難に対する選択を迫られたとき、人生に対するリーダーシップを問われている気がします。
選んだ選択肢とリーダーシップの有無は関係ありません。
変わりゆく環境、そこから与えられる影響に対してただ受動的になるのではなく、どう反応し行動するかを『自分で決める』というのがリーダーシップだと思います。
生きている限り厄介事は起こり続けますが、どう反応するかは常に自分で決める。
そのリーダーシップがあるか否かが、自分の人生を納得感をもって生きられるか否かだと思います。
やられてもやり返さない。時間の無駄だから。
"やられたらやり返す、倍返しだ!"というフレーズが流行りましたが、現実では些細な"やられた"にはやり返さない方が自分を守れます。
ここで言う"やられた"は、批判を受けたり悪態をつかれたりして、嫌な気持ちになるようなことだと思ってください。
これらは交通事故やゲリラ豪雨に遭うようなもので、自分ではコントロールできません。
自分と人間関係を紡いでいるその先の人間も、自然物ですから。
その一方で"やり返す"かどうかは自分で選ぶことです。そう、自分で選ぶ意識が大切です。
やり返すには時間もエネルギーも必要で、しかも達成されるまで苦い思いを反芻し続けることになります。
その時には既に敵の干渉を受けていないにも関わらず。
それは自分の手で損害を拡げることです。
だからやり返さないことを選ぶ必要があります。
やり返さないことを選ぶ方法は簡単です。
他人の言動で自分が何か奪われたかを確認するだけです。
大抵の場合、ある程度の時間と気力が損なわれたくらいだと思います。
でもこれは人間社会で生きていれば誰もが受ける摩擦で、不可避です。
自尊心や勇気を奪われたと思うことがあるかもしれませんが、それは気のせいです。
なぜならその人と出会う前、自分は自分らしさを保てていたからです。
頭の中でその人を切り捨てて、出会う前の自分に戻れば大丈夫です。
事故や豪雨に見舞われやすい構造の中に自分がいる場合、つまり決まって自分に嫌なことをする人が近くにいる場合、やり返す代わりにその人との関係を壊して捨てれば大丈夫です。
その人がどう感じるかは関係ありません。
お互いに、出会う前は自分の人生を生きていたのだから、戻るだけです。
まとめると、"やられた"ことは生きていれば誰もに降りかかる事故。仕方ない。でもその後の行動は自分で決める。
自分で選べることを外因に支配させてはいけない。
ネガティブな過去は考えないこと。これは精神的に良い悪い以前に、最も得(損害が最小)。
という感じです。
有限な時間を生きる中で、やり返す人とやり返さない人の間には、大きな余暇時間の差が生まれると思う次第です。
へこむかどうかは自分で決めるというマインド
ありのままの自分で少しだけ日常を変える、素敵な考え方に出会いました。
それが『へこむかどうかは自分で決める』です。
これまで僕は、誰かに嫌な態度を取られたら自動的にネガティブな気持ちになっていました。
人間関係の啓発本では"それは他人に期待や依存をしているからだ"という意見があったりしますね。
でもこの考えは自分に変化を与えてくれませんでした。
僕は楽しいコミュニケーションが生活を豊かにすると思っていて、どんな人ともそれができることを心の底で願っているからです。
自分の感情にリーダーシップを持つ
そして出会ったのが『へこむかどうかは自分で決める』です。
これは同じ会社に勤める年下の男の子が言っていました。
彼は数年前、理不尽でヒステリックな上司の元で働いていて、間違いを過剰に責められたり言うことなすこと否定されたりしていました。
そのとき彼が思っていたのが「いや…へこましたくて言ってるんだろうけど、へこまねぇよ?へこむかどうかは俺が決めるから。」だそうです。
責められ続けたら自己嫌悪に陥って当然と思っていた僕にとって、これは衝撃でした。
だって、何があっても落ち込むかどうかは自分で決められるんですから。
それは自分の感情に自分自身が強いリーダーシップを持つということです。
逆にこのマインドがなければ、自分の感情を外因に支配させることになります。
"落ち込むかどうか"以外にも
- 緊張するかどうか
- 怒るかどうか
- 嫌うかどうか
など、あらゆるネガティブな感情を持つor持たないの判断を自分で下せばいいのです。
この考えを取り入れると次の3つの変化がありました。
リカバリータイムがいらないから時間の使い方が生産的になる。
ストレスが溜まると、それを紛らわすために暴飲暴食したり無目的に動画コンテンツをだらだら見たりしてしまいます。
マイナスに振れた感情をリカバリーするために余暇時間を浪費してしまうイメージです。
でも、そもそもネガティブな感情を持たないことを選べるようになった僕にはリカバリータイムが必要ありません。
空いた時間で生産的でチャレンジングな活動に取り組めるようになりました。
僕は家でお酒を飲むことがなくなり、代わりに英会話の勉強を始めました。
ネガティブな感情がゼロになるから、些細な幸せや感謝したいことに気付く
ネガティブな感情を抱えているときは、犯人探し・自分を満たしてくれるもの探しに意識が向きがちです。
でもそれがなくなることで、有難いこと・愛おしいものを感じるアンテナが敏感になり、日常の幸福感が確実に上がりました。
穏やかでいられるから人間関係が良くなる
精神的に落ち着いていられるので不機嫌な態度を取ることがありません。
余裕を持って周りに気遣いができます。
家族との仲も以前より良くなりました。
自分の感情の舵取りをする。
言うのは簡単でも、なかなか無意識レベルで実践できることではありません。
僕の場合、この話をしてくれた彼の陰を借りることでモノにできたと確信しています。
これまでの脳内回路は
- 何かが起こる
- 反射的に感情が生まれる
だったのが、
- 何かが起こる
- 頭の中で、彼が「それってイラつく必要あります?」と聞いてくる
- 「うん、ないね」と一旦ジャッジを挟む
- 冷静なまま対処する
という状態に変わりました。
ボクシングのセコンドのような存在が頭の中にできたことで、自分一人ではできなかった判断工程を得られたのです。
尊敬する人との会話ってやっぱり有益で楽しい!と思った次第でした。
大切な人の弔い方を持っておきたい
僕は身近で大切な人の死をまだ経験していません。幸い家族も友達も健在です。
でも大切な人との死別はいつか必ず訪れますし、それは今日かもしれません。
その時に、うろたえて何もできないのは嫌だと思いました。
つまり予め大切な人の弔い方を自分の中に持っておきたいと思ったのです。
弔う方法=手段を準備しようと思ったら、まずその先にあるはずの弔う目的を考える必要があります。
何のために弔いが必要だと思ったのでしょうか?
それは2つありました。
一つは自分のため。気持ちに整理をつけて、大切な人が死んだ後も続く人生を前向きに生きること。
もう一つは死にゆく人のため。死にゆく人が、自身の人生をより納得・満足のいくものだったと思う手助けをすることです。
この2つを達成するための行動は、やはり感謝を伝えることだと思います。
つまり相手が生きているうちに「ありがとう。あなたとの楽しい思い出が僕の中に残っているよ。とても大切な存在だったよ。」ということを伝え、認識してもらうことです。
そう、これはお互いが生きているときにしかできないことです。
なぜなら、(これは僕の個人的な定義ですが)感謝は相手のキャッチャーミットを鳴らして初めて感謝としてカウントされるからです。
因みに
- 非の打ち所がない葬儀を営み読経してもらうこと。
- 専門職の人に戒名をつけてもらい高額なお墓に遺骨を納めること。
- 深く悼み喪に服すこと。
これらは全て感謝としてカウントできず、僕にとっての弔う目的を果たせないので特にやる意義がありません。
だから可能な限りオプションを省いて低コストで行うことにします。
そして金銭的な余裕を少しでも確保したら、その分を生きている間の思い出作りに使いたいと思います。
以上から、僕の「大切な人の弔い方」はお互いが生きている間に思い出作りをして、感謝を伝えることだとわかりました。
僕の弔いは死別後にできない。これは言葉として矛盾しているけど真実です。
このことを自分の中に持ちながら生きると、大切な人との時間が有限だという事実が浮き立ちます。
そして、過去や未来ではなく今のコミュニケーションに集中できます。
結局のところ、目の前の人との関わり方に少しでも後悔を残さないようにしたいねというお話でした。
子供を叱る/叱らないの夫婦間ギャップが言語化されていた
先日、育児について"こういうことだったんだ!"と思えるTwitter投稿を見つけて、心のつっかえが取れました。
それは、ひだ ゆう 心理相談員(発達)さんという方の次の投稿です。
ペアレントトレーニングの考え方では、人の行動は3つしかない。幼児も同じ。
①好ましい行動
②できればやめて欲しい行動
③絶対にやめて欲しい行動叱り過ぎてしまう事が多い時には。
②と③がうまく整理できていないのも要因の一つ。本当に叱るべきは③。
②は実は見過ごしても良い場合がある。
https://twitter.com/zteacher2017/status/1362514660025458688?s=21
うちの夫婦には
パパ:ほとんど怒らない叱らない
ママ:頻繁に怒る叱る
という違いがあって、お互いがお互いの育児スタイルに対し、本当にそれでいいの?と心の中で思っていました。
何度か言葉でそれを伝え合ってみましたが、価値観の違いがぼんやりと再確認されるだけで、前向きな議論にはなりませんでした。
そこで見たのが上記の投稿です。
うちの夫婦で子供への対応に差があったのは②の部分だけのことだったんだ!と思いました。
思い返せば子供が①の明らかに好ましい行動をとったときはパパもママも手放しで褒めますし、③の例えば車道に飛び出しそうになったときなどはパパもママも迷わず大きな声で制止して教えます。
②に対してだけ、両親の対応に違いがあるのです。
僕は、①③への対応は両親で一貫性がとれているのにこれをポジティブなこととして受け止めることをしないまま、②への対応に違いがあることが全てであるかのように課題視してしまっていました。
「子供との向き合い方が両親で全然違う」のではなく、実態は「子供との向き合い方の大半は両親で一貫性があるけど、部分的に違う」だったのです。
(↑ひだ ゆうさんの意図されたメッセージの受け取り方とは違うとわかっていますが、投稿を見て今の自分の状況から気づいたことになります。)
このパラダイムシフトを経て思ったのは「部分的に違うくらいなら(子供もそこまで困惑するわけじゃないと思うし)別にいいじゃん」です。
両親で擦り合わせるべきだと思っていたギャップを、放置してもいい単なる個人差として感じられるようになりました。
課題が課題でなくなり、そもそもなんとかする必要がなくなったのです。
肩に乗っていた課題は自分が勝手に作ったものだとわかり、その瞬間にスッと消え心が軽くなりました。
転じて考えると、自分の心には他にも放置して差し支えない課題、見方を整えると問題でもなんでもなくなることがあるかも知れません。
成長したいとか、お金を稼ぎたいとか、人に好かれたいとか…本当にそれって、どうにかしなきゃ笑顔になれない?
知らず知らずどこかで拾ってきた固定観念に縛られてない?
自分の根底にある価値観に照らし合わせ、ときどき確認しながら生きていきたいなと思いました。
共感力の高い人あるある言いたい
僕が思う共感力高い人の行動あるあるです。
- 人のおかずを貰ったらなるべくすぐに食べて感想を言う。
- 人が料理を口に運んだその瞬間に「どう?美味しい?」と聞かずに、味わって自然と感想が生まれるための時間を設ける。
- マッサージしたときに「うわ!凝ってるね〜!」って言う。
- 居酒屋で3人以上で話してて、誰かがトイレに行って帰ってきたとき、その間の話のあらすじを自然におさらいしてあげる。
- 遊び終わって解散するとき、見えなくなる直前にもう一度振り返って手を振る。
- 君〇〇に似てるよねって言わない。
- 〇〇って知ってる?と誰かが会話を始めようとしたときに、「あぁ、あのまずいやつね」みたいにネガティブなイメージで言わない。
- 同僚同士が話しているところに、話し手の邪魔にならない質問を差し込んで自然に参加する。
- 同僚と話しながら、輪の外にいる話に参加していない隣の同僚にも自然に質問を投げかけて参加させる。
- みなさんへ、と誰かが差し入れをしたとき、遠慮せず食べて喜ぶ。長く残りそうな雰囲気があったら率先して配る。
- 奥さんの写真を見せてもらったときは0秒で綺麗な方ですね!と言う。
- zoom会議で誰かが設定調整に手間取っているとき、自然に雑談を振って場を繋いであげる。
- 誰かと回転寿司で食事していて、醤油を使ったら相手に近い所かテーブルのど真ん中に戻す。
以上、共感力高い人の行動あるあるでした。